時間の流れの濃淡
二日続いて雨模様というのは今年初めてのことか。なんだかんだせわしなかった一月が
終わって二月に入った。やはり、一月というのはそれでも時間がゆったり流れていたような
気がする。もっともよく耳にする諺では、「一月は行く」といって何もしない間に過ぎてしまう
ように言われるが、今年に限ってはそんな感じはない。「二月は逃げる」というが、逃げられ
ないように充実した四週間にしたいものである。
出勤すると外為法の新しい法令集が届いていたので、見出しを貼りながら一通り眺めて
いると午前の大半を費やしてしまう。外は雨足が強い感じでどんよりしている。こんな日には、
オフィスで日長デスクワークをしているのも悪くない。
先日ここにも書いたが「人を動かす四つの方法」というのを書いていた同じエッセイストが、
今週は「時間の流れの濃淡」というテーマで書いていた。思わず納得して読んだ。言い得て
妙なりと痛く感動する。以前から「切羽詰まったときの集中力」、ということを口実にギリギリ
セーフのパターンの多い自分なのだが、それは時間の流れには濃淡があるという理屈により
かなりスッキリする。
小学校の頃から夏休みの宿題はツクツクホウシのせわしない鳴き声が聞こえてから追い
込みをかけ、中高時代の中間・期末テストは大概一夜漬け。会社に入ってからも研修発表
やプレゼン資料の作成はギリギリになって初めて頭も良く回転して仕上がるというパターン
を繰り返してきた。今ではあまりそのような局面はないのだが、英語会の予習は直前が一番
集中して捗るというのは同じパターンだ。
それは、同じ一時間でも濃い一時間とうすい一時間があるという「時間の流れの濃淡」論で
説明がつきそうだ。締め切りギリギリの時間は、脳内ホルモンが盛んに分泌され理解力や
創造力が飛躍的に高まるというのも頷ける。
ただし、それは裏を返せば「人はやるべきことをなぜ先延ばしにするのか」というやっかいな
命題に戻ってくる。やはり理想は、早い目に濃い時間の流れを作れることであろう。それに越し
たことはない。